前半サッカーの話。後半政治の話です。
何事も目的が明文化もしくは明確になっていないと過程は不確実になり、その結果その目的までもブレてしまいます。
個人においては時間の経過と感情の経由がそれを引き起こさせ、組織においては関わった人の数とその関わりあいが。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アビスパ福岡は毎年J1昇格(その目標自体が足下を見ていないと個人的にかんじるのだが)といいながらもそれを実現するための具体策を講ずることはなく。
はっきりいって昇格を決めた2005年の時のような雰囲気づくりを今シーズン、フロントは仕掛けていなかったし、チームスタッフもそう。
「結果の責任を選手だけがとった」とは私は言いません。事実ゲームをしたのは彼らなのですから。彼らにも責任の一端はある。
が、事実9名の選手がそれをとりました。
ではフロントは?チームスタッフは?サポーターは?
辞めることが必ずしも「責任をとる」ということではありません。それに現体制の継続を決めたフロントとそれを受けたチームスタッフが取るべき責任とは現段階ではプロスポーツチーム、フロントとして成長と変化しようという姿勢を見せること。
先日のホーム最終戦。人それぞれ感情、考え方を否定するつもりではありませんが、人の話を聞かないで文句だけ言うのは子供と一緒でしょうし、国会で野次る政治家と変わりありません。
勝つためにはチーム、サポーター、フロントの3者が一つにならなければならないのです。
わたしはサポーターがそれを放棄してしまったように思えてなりません。
確かに信頼することのできないフロントです。しかし私たちがそれを、チームとフロントを長い目で見守り、信頼し続けなければ、フロントは「なにをやってもブーイングされるよ」と身を固めてしまいます。
好きな人の笑顔を見る最もシンプルかつ効果的な方法は自分がその人に微笑みかけることです。
これが私たちの今シーズンの反省と責任。来シーズンへの宿題です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
変わって政治の話です。
ちょっと古いのですが事業仕分けについて。
「目的の明文化」という点でサッカーネタと同じエントリーで。
鳩山首相の事業仕分けの最初の目的は何だったのでしょうか。
①来年度予算の見直しと無駄を省くこと。
②天下り法人の洗い出しと撲滅。
③無駄を省いたうえでの子供手当などの財源確保。
といったところでしょうか。
勝手な想像ですが、首相は全部をやれると思ったのでしょうし、それがりそうだった。しかし、あまりにも短期間にすべてを詰め込みす、そのため目的がぶれてしまった。
しかも、数字だけを目標にしてしまったためか血の通わないやりかたになってしまった。
科学分野の知識人、オリンピックメダリストたちの抗議はそのいい例です。
鳩山政権は八方美人の理想家。
事業仕分けも優先順位をつけて行うべきだったし、仕分け人の選定も国民には不透明でした。
例えば、「天下り撲滅」を最優先にするとすれば、そこに焦点をしぼるべきでした。
私は事業仕分けを否定している訳ではありませんがもう少し目的に優先順位をつけ時間をかけるべきだったのでは?と感じます。
ただ、来年度予算と国会の期日を考えるといそがないといけなかったのも事実ですが・・・
首相は初めて政権をとって、短期で結果を出そうと「アレもコレも」になっています。
でないと次の選挙で自民党に政権を奪還されるのを恐れているからなのでしょうが・・・
いい加減、政争というものをやめていただきたい。
一国民国家としての目的が政争のためにブレ、国として何の進歩もしない時代が続いてしまいます。
自民・民主・その他の政党すべてが日本という国の中でのPlayerなのですから。
Think Global, Act Local. です。
次のエントリーはこれに関連してParadigm Shiftについてです。
2009年12月7日月曜日
2009年11月7日土曜日
Think global, Act local
JFKは大統領就任演説で次のように訴えた。
「わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。わが同 胞の世界の市民よ、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、われわれと共に人類の自由のために何ができるかを問おうではないか」
人は独りでは弱い。
「誰かがやってくれるだろう」だとか
「別に自分がしなくても」とつい思ってしまう。
誰もがそうだ。
政治にしても「民主党はどう変えてくれるのか」だとか
環境問題にしても「個人よりも企業が動かなきゃ」だとか。
人がどうじゃない。
自分がアクションをおこすかどうかだ。
どんな小さな事でもいい。
そうすればリアリティーになる。
リアリティーは体の外側にあるのだ。
常に起点でありたいと私は思う。中心ではなくていい。
地球は太陽系の中心ではない。
太陽系も天の川銀河の中心にない。
でも、地球は自転し、太陽は自ら燃え、銀河系は渦を巻いている。
「わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。わが同 胞の世界の市民よ、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、われわれと共に人類の自由のために何ができるかを問おうではないか」
人は独りでは弱い。
「誰かがやってくれるだろう」だとか
「別に自分がしなくても」とつい思ってしまう。
誰もがそうだ。
政治にしても「民主党はどう変えてくれるのか」だとか
環境問題にしても「個人よりも企業が動かなきゃ」だとか。
人がどうじゃない。
自分がアクションをおこすかどうかだ。
どんな小さな事でもいい。
そうすればリアリティーになる。
リアリティーは体の外側にあるのだ。
常に起点でありたいと私は思う。中心ではなくていい。
地球は太陽系の中心ではない。
太陽系も天の川銀河の中心にない。
でも、地球は自転し、太陽は自ら燃え、銀河系は渦を巻いている。
2009年10月1日木曜日
At least you get your foot in the door
腰を痛めました。
歩けなくなるほどに・・・
電気治療とウォーキングのリハビリで小走りぐらいはできるようになりました。
でも気がつくと体をそらして歩いていたり
立った時に「ピキ」っとサインを出してくれます。
このケガはサインだと思います。
体の要をいためてしまう事は、これからの私に対して重要な決断をしろという宇宙からのサインではないかと。
どっちつかずで手広く就職活動をしてみたり、公務員試験を受けてみたり、就職せずに大学院へいこうか考えてみたり。
その他将来の目標につながりそうな道を探してきました。
それでも、「コレだ」と思う道をすんなりと通らせてくれるほど順調でもなく。
自分の目指す方向を既存のモノに押し込めるようにとりつくろっても、そんな道は門前払い。
やきもきする日々が続いていました。
それも腰が治るころには覚悟を決めているでしょう。
At least you get your foot in the door
ついさっき、話した友人がくれた言葉です
歩けなくなるほどに・・・
電気治療とウォーキングのリハビリで小走りぐらいはできるようになりました。
でも気がつくと体をそらして歩いていたり
立った時に「ピキ」っとサインを出してくれます。
このケガはサインだと思います。
体の要をいためてしまう事は、これからの私に対して重要な決断をしろという宇宙からのサインではないかと。
どっちつかずで手広く就職活動をしてみたり、公務員試験を受けてみたり、就職せずに大学院へいこうか考えてみたり。
その他将来の目標につながりそうな道を探してきました。
それでも、「コレだ」と思う道をすんなりと通らせてくれるほど順調でもなく。
自分の目指す方向を既存のモノに押し込めるようにとりつくろっても、そんな道は門前払い。
やきもきする日々が続いていました。
それも腰が治るころには覚悟を決めているでしょう。
At least you get your foot in the door
ついさっき、話した友人がくれた言葉です
2009年8月24日月曜日
宇宙は一つだ。だから、無限だ。
楽しむこと。
それが、すべての秘訣の一つであり、最も重要なこと。
と、よくいいます。
私も、そう思います。
だから、「楽しくない」と思ったらするべきではないし、しないようさけるべきではないでしょうか。
それは、「逃げ」ではなく「選択」
「楽しくなさそうなもの」をしないのは「逃げ」
その中に、楽しいことが含まれているかもしれない。
その「楽しくなさそうなもの」のなかの「楽しいこと」を見逃さないために必要なことは。
感じること。
宇宙の声を
小宇宙の声を。
それが、すべての秘訣の一つであり、最も重要なこと。
と、よくいいます。
私も、そう思います。
だから、「楽しくない」と思ったらするべきではないし、しないようさけるべきではないでしょうか。
それは、「逃げ」ではなく「選択」
「楽しくなさそうなもの」をしないのは「逃げ」
その中に、楽しいことが含まれているかもしれない。
その「楽しくなさそうなもの」のなかの「楽しいこと」を見逃さないために必要なことは。
感じること。
宇宙の声を
小宇宙の声を。
2009年6月4日木曜日
島人
TVほど生産性のないメディアは無いと、帰国して感じました。
見るのはNHKの番組と、キー局のニュース。そして弟の見るドラマ。ぐらいでしょうか。
後は、本か新聞。 そして昔買ったアニメのDVD。
本題ですが、日本人は「外国で評価されたモノ=スゴイモノ」という図式から抜け出せていないなーと多くの面で感じます。
「邦画が、海外の映画祭で絶賛された」から「その映画は」すごい。
だとか
「海外で売れた音楽家」だから「その人の音楽は」すごい。
などです。
古くは葛飾北斎。最近では宮崎駿。Boom Boom Satellites。千住博。押井守。などなど。
押井守がアニメファンだけでなく、広く一般に知られる事になったのが「イノセンス」。
攻殻機動隊の劇場2作目です。
映画は売ってなんぼですから、PRしないとしかたがないのですが、悲しい事にこの映画の売り出し方が「この監督は前作『Ghost in the Shell』でアノBillboardでセルビデオランクで1位をとった!」という宣伝の仕方でした。
このやり方がいい、悪いの話ではなく私は日本人の自分達の中にある評価基準が低い事を指摘したい。いや、むしろ個人レベルでのそれがない事に危機感を覚えます。
消費者一人一人、確固たる物差しを持つ事が必要ではないでしょうか?モノを評価する際、「あの人が良いといったからいい」や「すごい文化人が評価してたからいいものだ」という物事の評価の仕方は違うはずです。
でなければ、いつまでたっても日本は海外の情報やトレンドに振り回され、確固たる「日本」を築けないでいるでしょう。
国や日本人としてのよりどころ、「他人がどー言おうが、自分達はコレを自身の源にしている」というものを持っていた方が、今後の文化や人の流入流出の際に解け崩れていかないのではないでしょうか。
しかしここまで考察して、命題を自ら壊してしまいますが、
形あるものにこだわらず常に流れ変わりゆくモノがその日本人としての「確固たるモノ」なような気もします。
茶道の型のように、花道が空間を作り出すように。
しまんちゅうにはなれないのでしょうか。
しかし、うみんちゅうは2度と同じ形をしない波の様に己を表現するでしょう。
見るのはNHKの番組と、キー局のニュース。そして弟の見るドラマ。ぐらいでしょうか。
後は、本か新聞。 そして昔買ったアニメのDVD。
本題ですが、日本人は「外国で評価されたモノ=スゴイモノ」という図式から抜け出せていないなーと多くの面で感じます。
「邦画が、海外の映画祭で絶賛された」から「その映画は」すごい。
だとか
「海外で売れた音楽家」だから「その人の音楽は」すごい。
などです。
古くは葛飾北斎。最近では宮崎駿。Boom Boom Satellites。千住博。押井守。などなど。
押井守がアニメファンだけでなく、広く一般に知られる事になったのが「イノセンス」。
攻殻機動隊の劇場2作目です。
映画は売ってなんぼですから、PRしないとしかたがないのですが、悲しい事にこの映画の売り出し方が「この監督は前作『Ghost in the Shell』でアノBillboardでセルビデオランクで1位をとった!」という宣伝の仕方でした。
このやり方がいい、悪いの話ではなく私は日本人の自分達の中にある評価基準が低い事を指摘したい。いや、むしろ個人レベルでのそれがない事に危機感を覚えます。
消費者一人一人、確固たる物差しを持つ事が必要ではないでしょうか?モノを評価する際、「あの人が良いといったからいい」や「すごい文化人が評価してたからいいものだ」という物事の評価の仕方は違うはずです。
でなければ、いつまでたっても日本は海外の情報やトレンドに振り回され、確固たる「日本」を築けないでいるでしょう。
国や日本人としてのよりどころ、「他人がどー言おうが、自分達はコレを自身の源にしている」というものを持っていた方が、今後の文化や人の流入流出の際に解け崩れていかないのではないでしょうか。
しかしここまで考察して、命題を自ら壊してしまいますが、
形あるものにこだわらず常に流れ変わりゆくモノがその日本人としての「確固たるモノ」なような気もします。
茶道の型のように、花道が空間を作り出すように。
しまんちゅうにはなれないのでしょうか。
しかし、うみんちゅうは2度と同じ形をしない波の様に己を表現するでしょう。
2009年5月28日木曜日
焦燥感
先日、晴れて大学を卒業しました。
アメリカ生活5年でたどり着いた一つの節目です。
ただ、タッセルを左にターンしてもセレモニーというモノの意味深さというのは、日本のそれとはやはり比べ物にならず、実感がありません。
それは、帰国後2週間ほど過ぎた今でもそうです。
アメリカの大学だからどうだとかいう事ではないのですが、やはり私の中では一つの特別な事。
この内面の特別性を意味のあるものとするのは、これからの私の行動と結果です。
2週間、身辺整理をしながら充電をしました。
体の内から出てくる、焦燥感と言いますか「このままでは・・・」という気持ちが私を突き動かそうとしています。
さて、何から始めようか。
アメリカ生活5年でたどり着いた一つの節目です。
ただ、タッセルを左にターンしてもセレモニーというモノの意味深さというのは、日本のそれとはやはり比べ物にならず、実感がありません。
それは、帰国後2週間ほど過ぎた今でもそうです。
アメリカの大学だからどうだとかいう事ではないのですが、やはり私の中では一つの特別な事。
この内面の特別性を意味のあるものとするのは、これからの私の行動と結果です。
2週間、身辺整理をしながら充電をしました。
体の内から出てくる、焦燥感と言いますか「このままでは・・・」という気持ちが私を突き動かそうとしています。
さて、何から始めようか。
2009年1月5日月曜日
旅する意味
「旅」とはいつも私を不思議な感覚へ押しやってくれる。「常に気を張っておく」というか「常に刺激にさらされている」というかバックパック一つでこの身を守らなければならない状況はいつどこへ赴いても、「感性が逆立つような」そんな独特な感覚を私に与えてくれる。
南米ではアルパカのニットキャップやポンチョをふっかけてくるインディヘナに出くわした時、日本語で「ともだち」とかなんとか言いながらツアーのビラを差し出してくるやつからそのビラを受け取る時。そいういう感覚が増幅される。
そしてあらためて「旅をしている」と自覚され、その自覚がまた自分の今の状況を楽しく、刺激的に、そして興奮させてくれる。
以前から旅をする理由について考えていた。もちろん世界各国の世界中に散らばったバックパッカーたちは、それぞれの理由で旅を続けている。
世界をその目で見たがる者。旅は最高のエンターテイメントだと豪語する者。ただただ好きだからという者。
それぞれだ。
私の旅する理由もその時どきで変わって来た。それでもその根底にあるモノは変わっていないと思っていた。そしてそれがなにか言葉で表現する事ができないでいた。「世界をみたい」とか「楽しみたい」とかそういうものの根底にあるモノ。
それは好奇心だ。
ある小さな好奇心が私を旅立たせ、旅先の空気、自然、街、遺跡、人がその好奇心をみたしてくれ、その満たされた好奇心がさらに別の次元の好奇心をかき立ててくれる。
そうなることで、私は自己の感性を敏感にたもとうとしているのではないだろうか。
「人生とは旅だ」とよく形容されるが、感性を敏感に保ち、好奇心でさらなる好奇心を奮い立たせる事。 それが、人間が魅力的に生きていく上で大切な事ではないだろうか。
ある人は、好奇心を「読書」で奮い立たせているかもしれない。ある人は「音楽」で感性を敏感にしているのかもしれない。
その感性と好奇心を高い次元で保つ方法が私の場合旅なのだ。
今回の南米への旅は今まで行った何処よりもその感性が逆立つ感覚を覚えた旅だった。
登録:
コメント (Atom)