まず、断っておきたいがここで言及することが真理ということは決して無い。
しかし、一つの世界のえがき方だとも思う。
「人生とは旅(のようなもの)である」
誰もがうなずけるとおもう。 だが、私は違うと言いたい。
旅とは人生を魅力的にする2つの要素のうちの1つではないでのか。
すなわち日常に対する非日常。
日常があるが故に非日常があり、非日常があるために日常があるという事だ。
コインの表と裏、昼と夜の関係性と同質のものである。
旅(非日常)とは日常から遠いので人は旅において感傷的になったり、冒険的になったりするのだ。
旅のその移動距離に関わらず。
車で30分の目的地でも、県内でも、国内でも。 日常からの遠さでそれは旅になる。
毎日、毎週、毎月の仕事があり同じ行動を繰り返す事でそれは日常になる。
その繰り返しの行動から外れる行動をするとそれは旅になるのだ。
週末のドライブもたまにするから気持ちがいい。
毎週ドライブへ行っていてはそれは旅ではなく日常だ。
これに関しては賛同してくれる人の方が多いと思う。
では、人生という長い期間で考えるとどうか。
まず、人生と旅をつなげてみる。 この二つの共通点、すなわち、ある場所から別の場所へ、そしてさらに別の場所へ、という”移行性”だ。
これは場所や組織、住処などの物理的なものからその移動にともなう関わる人の違いと移行、すなわち人間関係などの精神的な移行も含んでいる。
人生において個人は所属と位置を変えながら(成長しながら)、それと同時に関わる人とその人との関わり方を変えていき、人生を歩む。
旅も時間を使いながらある場所からある場所へ、それと同時にその土地その土地で関わる人を変えていきながら旅をつづける。
この点においては人生は旅そのものと言ってよいように思える。
しかし、"移行性"が共通しているからといって旅と人生をつなぎあわせるのは危険だ。
なぜなら、人は常日頃から旅行中のあの気まぐれさ。開放感。冒険性。敏感さ。漂泊感。を持って日常を過ごす事ができないからだ。旅行中の感覚で日常へ入ると「バカンス気分が抜けていない」と上司に怒られるだろう。旅独特のあの感覚は日常にないからこそ人は旅に憧れる。
旅人の移行性は自由であるが、旅から帰ると自分の移行性(行動と関係)にともなう責任がついてくるからだ。
つまり、非日常の移行性と日常の移行性は似通ってはいるが、まったく異質のものだ。
だから、旅と人生は別である。
人生=日常+旅
ゆえに旅は人生の半分であり必要なもの。そして旅があるから日常が輝き(その逆もしかり)、人生が楽しめるのだ。
2010年3月5日金曜日
2009年1月5日月曜日
旅する意味
「旅」とはいつも私を不思議な感覚へ押しやってくれる。「常に気を張っておく」というか「常に刺激にさらされている」というかバックパック一つでこの身を守らなければならない状況はいつどこへ赴いても、「感性が逆立つような」そんな独特な感覚を私に与えてくれる。
南米ではアルパカのニットキャップやポンチョをふっかけてくるインディヘナに出くわした時、日本語で「ともだち」とかなんとか言いながらツアーのビラを差し出してくるやつからそのビラを受け取る時。そいういう感覚が増幅される。
そしてあらためて「旅をしている」と自覚され、その自覚がまた自分の今の状況を楽しく、刺激的に、そして興奮させてくれる。
以前から旅をする理由について考えていた。もちろん世界各国の世界中に散らばったバックパッカーたちは、それぞれの理由で旅を続けている。
世界をその目で見たがる者。旅は最高のエンターテイメントだと豪語する者。ただただ好きだからという者。
それぞれだ。
私の旅する理由もその時どきで変わって来た。それでもその根底にあるモノは変わっていないと思っていた。そしてそれがなにか言葉で表現する事ができないでいた。「世界をみたい」とか「楽しみたい」とかそういうものの根底にあるモノ。
それは好奇心だ。
ある小さな好奇心が私を旅立たせ、旅先の空気、自然、街、遺跡、人がその好奇心をみたしてくれ、その満たされた好奇心がさらに別の次元の好奇心をかき立ててくれる。
そうなることで、私は自己の感性を敏感にたもとうとしているのではないだろうか。
「人生とは旅だ」とよく形容されるが、感性を敏感に保ち、好奇心でさらなる好奇心を奮い立たせる事。 それが、人間が魅力的に生きていく上で大切な事ではないだろうか。
ある人は、好奇心を「読書」で奮い立たせているかもしれない。ある人は「音楽」で感性を敏感にしているのかもしれない。
その感性と好奇心を高い次元で保つ方法が私の場合旅なのだ。
今回の南米への旅は今まで行った何処よりもその感性が逆立つ感覚を覚えた旅だった。
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