昨年の3月、私は一人の意思ある人と二言三言、言葉を交わさせていただきました。
それは"What are you studying?" "Good Luck." とどこにでも転がっていそうな言葉ではあったけれども、私がしたいと思っている仕事に近い仕事をしようとしている彼女にそういう言葉をかけていただいた事は、とても励みになりました。
昨年の3月中旬、私の大学に Benazir Bhutto氏が講演にいらっしゃいました。彼女は亡き父の遺志を継ぎ、亡命生活に終止符を打ち彼女が育だち、子供たちを育てたい土地へと舞い戻り、彼女の成すべきをとをする、とおっしゃっていました。
生徒会(のようなもの)に参加している私は講演後のレセプションに参加させてもらいました。そこで、上に書いたような言葉をいただいたのですが、とても落ち着いた方で気品にあふれ堂々としていました。
それから、1年もしないうち彼女は故郷に戻り、そして亡き人となりました。
非常に残念なのは言うまでもなく、「彼女がなくなったからパキスタンの政権安定化は何年先になった」とか「パキスタンの民主化は暗礁に乗り上げた」だとかそういうことではなく、一人の意思ある人間が亡くなったということが、私にとってはたまらなく残念で、悲しくあります。
たった二十数年しか生きていない私ですから、「話をした事がある人」の死を身近にした事があまりありません。 ただただ御冥福を祈るばかりです。
暗殺の実行犯はアル・カイダと何らかの関係があるという報道が大体の見方ですが、真相はすでに闇の中。
どんなに、悲しんでもshow must go on。
一刻も早いパキスタンの安定化が彼女への手向けになるはずです。
2008年1月6日日曜日
2007年10月17日水曜日
〜アル・ゴアのノーベル平和賞受賞〜
"An Inconvenient Truth"を鑑賞したのは、去年のことだ。「こんなひとだったっけ?」が最初の印象だった。映画は冒頭から最後まで、淡々と続く。
確かに、内容はすばらしい。しかし、大半が小中学校で教わったことだった。エコロジー先進国、欧州各国や日本などでは、誰でもとまではいかないにしても、ある程度は一般化されていることを彼は話していた。
アメリカで生活をし始めて3年。アメリカのエコロジーに対する認識は先進諸国としてはお粗末と表現してもしきれないぐらい酷い。
小学生の背丈ほどある、緑色のゴミ箱のなかには、生ゴミ、瓶、缶、ペットボトル、紙。はたまた粗大ゴミまで。「ゴミ」と認識されているものすべてが詰められている。
その「ゴミ」と認識されるものはすべて大地にうめられる。
ボクが生活していたところが田舎だったからなのかもしれない。都会はまだましだろう。
それにしても、酷いのだ。
このような一般人のエコロジーに対する認識では、京都議定書を無視する理由もうなずける。
エコロには金がかかる。手間もかかる。
国民には分別を呼びかける。広いアメリカである。意識の普及にもそれ相当の資金がいるだろう。
分別されたゴミは何時、誰が回収しにいくのか?
そして、どのゴミをどこへ持っていくのか。それぞれの再利用施設を作らないといけないだろう。それもかなりの数を。
戦争をしている国がそんなことに金や手間、時間をかれるはずもないだろう。
"An Inconvenient Truth"の話にもどろう。
そういう、アメリカ人の意識を考慮すれば、”アメリカ人にとっては”考えさせられる映画だったかもしれない。そして、これからエコロジー対策をしていく国、またはしなければならない国(すべての国ではあるが)にとってはすばらしい内容の映画だっただろう。
そういうところを考慮され、ノーベル賞を受賞したのかもしれない。
私は現在、カナダで生活をしている。寮暮らしではあるが、ゴミは分別するよう指定してある。パリで少しばかり生活したが、街には瓶を回収する巨大な回収箱をよく目にした。
しかし、日本の実家に帰ると、ゴミ箱に無意識のうちにペットボトルを捨てて、母に注意された。最低な行為であった。来年にはアメリカに帰るが、アメリカでもゴミの分別を意識してしようと思う。
いまだからこそ、 ”Think Global, Act Local”である。
確かに、内容はすばらしい。しかし、大半が小中学校で教わったことだった。エコロジー先進国、欧州各国や日本などでは、誰でもとまではいかないにしても、ある程度は一般化されていることを彼は話していた。
アメリカで生活をし始めて3年。アメリカのエコロジーに対する認識は先進諸国としてはお粗末と表現してもしきれないぐらい酷い。
小学生の背丈ほどある、緑色のゴミ箱のなかには、生ゴミ、瓶、缶、ペットボトル、紙。はたまた粗大ゴミまで。「ゴミ」と認識されているものすべてが詰められている。
その「ゴミ」と認識されるものはすべて大地にうめられる。
ボクが生活していたところが田舎だったからなのかもしれない。都会はまだましだろう。
それにしても、酷いのだ。
このような一般人のエコロジーに対する認識では、京都議定書を無視する理由もうなずける。
エコロには金がかかる。手間もかかる。
国民には分別を呼びかける。広いアメリカである。意識の普及にもそれ相当の資金がいるだろう。
分別されたゴミは何時、誰が回収しにいくのか?
そして、どのゴミをどこへ持っていくのか。それぞれの再利用施設を作らないといけないだろう。それもかなりの数を。
戦争をしている国がそんなことに金や手間、時間をかれるはずもないだろう。
"An Inconvenient Truth"の話にもどろう。
そういう、アメリカ人の意識を考慮すれば、”アメリカ人にとっては”考えさせられる映画だったかもしれない。そして、これからエコロジー対策をしていく国、またはしなければならない国(すべての国ではあるが)にとってはすばらしい内容の映画だっただろう。
そういうところを考慮され、ノーベル賞を受賞したのかもしれない。
私は現在、カナダで生活をしている。寮暮らしではあるが、ゴミは分別するよう指定してある。パリで少しばかり生活したが、街には瓶を回収する巨大な回収箱をよく目にした。
しかし、日本の実家に帰ると、ゴミ箱に無意識のうちにペットボトルを捨てて、母に注意された。最低な行為であった。来年にはアメリカに帰るが、アメリカでもゴミの分別を意識してしようと思う。
いまだからこそ、 ”Think Global, Act Local”である。
2007年10月6日土曜日
2007年9月19日水曜日
登録:
投稿 (Atom)